ログイン玄関の扉が、何かに当たって途中で止まった。
紬は肩へかけた鞄を押さえ、もう一度ゆっくり扉を押した。床の上で硬いものが擦れ、プラスチックの乾いた音が重なる。
身体を隙間へ滑り込ませると、たたきに五つの弁当箱が転がっていた。
桃色、水色、紺色、黄色、薄緑。
今朝、暗いうちから紬が米とおかずを詰めたものだった。包みは外され、結び目もほどかれたまま、靴の間へ無造作に放り出されている。
「ただいま帰りました」
家の奥へ声をかけても、返事はない。
居間からテレビの音と、子どもたちの笑い声だけが聞こえた。
紬は買い物袋を床へ置き、一つずつ弁当箱を拾った。火傷した左腕へ袋の持ち手が食い込み、濡れたハンカチの下で皮膚がひりつく。手の甲を覆う絆創膏には、仕事中に滲んだ血が薄く透けていた。
桃色の箱を開ける。
茉白の弁当だった。
だし巻き卵が一切れ欠けているだけで、鮭もきんぴらも米も、そのまま残っている。朝にはまだやわらかかった米粒が固まり、海苔は湿って黒く縮んでいた。
水色の箱は颯真のものだった。蓋を開けた形跡すらなく、入れた時のままおかずが並んでいる。
紺色の箱には米粒が数粒貼りついているだけだった。凌雅は食べたのだろうか。そう思いかけた時、内側から生ごみのような酸っぱい臭いが上がった。中身をどこかへ捨て、空の箱だけ持ち帰ったのだと分かった。
黄色い箱も、ほとんど手つかずだった。結莉が好きだと言った甘いかぼちゃには、箸で突いた跡だけが残っている。
最後に、薄緑の箱を開ける。
湊人の弁当には、米の上へのせた星形の海苔だけがなかった。卵焼きの端が小さく欠け、ほかのおかずは残っている。
たったそれだけの痕跡に、胸の奥が痛んだ。
食べてもらえた嬉しさではない。
七歳の子どもが、兄や姉の目を気にしながら星だけを口へ運ぶ姿が浮かんでしまったからだった。
紬は五つの箱を重ね、買い物袋と一緒に台所へ運んだ。
流し台には、昼に使ったらしい皿とコップが山になっている。炊飯器の蓋は開け放たれ、しゃもじには乾いた米がこびりついていた。
「あ、帰ってたんだ」
茉白がスマートフォンを片手に入ってきた。紬の持つ弁当箱へ目をやり、面倒そうに眉を寄せる。
「弁当、玄関に置きっぱなしだったよ」
「今、見つけました」
「洗っといて。明日も使うんでしょ」
茉白は冷蔵庫を開け、ペットボトルの紅茶を取り出した。
「今日のお弁当、ほとんど残っていたけれど、体調が悪かったの?」
「友達と外で食べたから」
「外で?」
「駅前のカフェ。みんなで行くのに、一人だけ弁当なんて恥ずかしいし」
「そうだったの。でも、食べないと分かっているなら、朝に言ってくれたら――」
「急に決まったんだから仕方ないじゃん」
茉白は紅茶を一口飲み、紬の濡れた袖を見て顔をしかめた。
「何その服。汚い」
言い捨てて、台所を出ていく。
入れ替わるように颯真が現れ、菓子パンの空き袋を丸めてごみ箱へ投げた。袋は縁へ当たり、床へ落ちる。
「颯真も、お弁当を食べなかったの?」
「購買でパン買った」
「お金は、どうしたの」
「ばあちゃんにもらった」
「お弁当があるのに、どうして」
「友達がパンだったから。母さんの弁当、開けると臭うんだよ」
颯真は笑い、床へ落ちた空き袋を拾わずに去った。
紬は追いかける言葉を失い、流し台の前へ立ち尽くした。
冷めた鮭の脂と、古くなった米の匂いが、五つの箱から重なって漂う。
食材の値段が頭へ浮かんだ。
鮭の切り身。卵五個。特売で買ったかぼちゃ。少しずつ残しておいたほうれん草。五人分の米。
捨てられたのは食べ物だけではなかった。買うために何度も計算した金も、早起きして火を使った時間も、荒れた手で一つずつ詰めたことも、すべて最初からなかったように扱われている。
居間へ行くと、凌雅はソファへ寝転び、動画を見ていた。制服のシャツは脱ぎ捨てられ、靴下がテーブルの下へ落ちている。
「凌雅」
呼びかけても、イヤホンをしたまま顔を上げない。
「お弁当のことなんだけど」
紬が近づくと、凌雅は片方のイヤホンだけを外した。
「何」
「今日は、食べなかったの?」
「捨てた」
平らな声だった。
「中身を?」
「ゴミ箱に全部。あんなもん食えるわけないだろ」
紬は両手を身体の前で重ねた。絆創膏の下で傷が脈打つ。
「食べられないなら、せめて捨てずに持って帰ってきて。お母さんが食べるから」
「は?」
凌雅が上半身を起こした。
「食べ物を捨てるのは、もったいないでしょう」
「食えないものを入れた方が悪いだろ」
「食べられないものではないよ。今朝作ったばかりで――」
「うるせえな!」
凌雅が立ち上がった。
十七歳の身体は、もう紬よりずっと大きい。肩を怒らせて近づかれると、紬の足は無意識に半歩下がった。
「毎日まずい弁当持たされるこっちの身にもなれよ。友達に見られたら恥ずかしいんだよ」
「ごめんなさい。でも、捨てるくらいなら――」
「だから、しつこいんだよ!」
凌雅の拳が、紬の顔の横を通り過ぎた。
鈍い衝撃音が家中へ響く。
背後の壁がへこみ、白い石膏の粉がぱらぱらと床へ落ちた。拳を引き抜くと、壁紙が裂け、その下へ握り拳ほどの黒い穴が開いている。
紬の呼吸が止まった。
あと少し位置がずれていれば、拳は自分へ当たっていた。
凌雅は赤くなった拳を振り、舌打ちした。
「母さんが怒らせるからだろ」
物音を聞いた八重が、廊下から居間へ入ってきた。
「何を壊したんだい!」
「ばあちゃん、こいつがしつこくてさ」
凌雅が紬を顎で示す。
「弁当捨てたくらいで、ずっとぐちぐち言ってくるから」
八重は穴の開いた壁を確かめた。指で裂けた壁紙をなぞり、床へ落ちた石膏の粉を見下ろす。
「あんた、凌雅に何を言ったの」
「捨てるなら持って帰ってほしいと、それだけです」
「受験前の子をくだらないことで苛立たせて。壁まで壊させてどうするんだい」
「私が壊したわけでは――」
「あんたが怒らせたんだろ」
八重は迷いなく言い切った。
「修理代は、あんたの給料から出すからね」
紬の給料は、一円も紬の手へ渡らない。それでも、何かが壊れるたび、そこから引くと言われる。
「今月は生活費を減らすよ。自分のせいなんだから、食費が足りないなんて言うんじゃないよ」
十人で五万円。
そこから、さらに壁の修理費が引かれる。
「……はい」
ほかに答えられる言葉はなかった。
「返事だけしてないで、早く掃除しな。粉が飛ぶだろ」
凌雅は何も言わず、イヤホンを耳へ戻した。八重も居間を出ていく。
紬は掃除機を取りに向かった。
振り返ると、湊人が廊下の角に立っていた。
紬と目が合った瞬間、湊人は自分の口元へ指を当てる。それから誰も見ていないのを確かめるように左右を見て、小さく唇を動かした。
「お星さまは、食べた」
声になるかならないかの囁きだった。
紬が何か返すより先に、湊人は階段を駆け上がった。
小さな足音が遠ざかる。
紬は穴の開いた壁の前で、しばらく動けなかった。
翌朝。
五つの弁当箱が、調理台の上へ並んだ。
洗っても、凌雅の箱からは生ごみの臭いが完全には取れなかった。紬は何度もすすぎ、熱湯をかけ、乾かしてから米を詰めた。
昨日と同じように、鮭と卵焼きと野菜を入れる。
茉白には彩りが悪いと言われないよう、薄く切った人参を花の形にした。颯真の箱には臭いが移らないよう、汁気を一つずつ拭き取る。凌雅には味が薄いと言われない程度に、肉へ濃いめのたれを絡めた。
湊人の米には、また星形の海苔をのせた。
作らなければ、母親の役目を放棄したと言われる。
作っても、捨てられるかもしれない。
それでも弁当箱を空のまま渡すことだけは、紬にはできなかった。
蓋を閉じ、五つの包みを揃える。誰からも礼を言われないまま、それぞれの手が弁当を持っていった。
スーパーへ着くと、事務所の前に奈津子が立っていた。
腕を組み、いつもより濃く引いた口紅を固く結んでいる。
「御厨さん、ちょっと来て」
挨拶を返す間もなく、事務所へ連れていかれた。
机の向こうには店長の鴨志田修平が座り、伝票とレジの集計表を広げている。奈津子は一枚の紙を指で叩いた。
「昨日、二千円の不足が出たの」
「二千円……ですか」
「三番レジ。あなた、入ったでしょう」
紬は集計表の時刻を見た。過不足が記録されているのは午後二時から三時の間だった。
「この時間は、私は二番レジにいました。応援へ呼ばれたのも、午前中だけです」
「でも昨日、三番レジを一度は触ったわよね」
「開店前に釣り銭を入れました。その時は、奈津子さんと一緒に金額を確認して――」
「私のせいだって言いたいの?」
奈津子の声が低くなる。
「そうではありません。ただ、もう一度記録を確認していただければ」
鴨志田が大きく息を吐いた。
「御厨さんさあ」
椅子の背へ身体を預け、面倒そうに眉間を押さえる。
「二千円のために、全員の仕事を止めて調べ直せっていうの?」
「私の担当していない時間ですから」
紬の声は震えていた。
けれど、ここで認めれば二千円を出したのは自分になる。青い手帳へ残してきた数字が頭をよぎる。生活費から二千円なくなれば、岩蔵の紙おむつが足りなくなる。
「そうやって自分だけ悪くないって態度を取るから、周りとうまくいかないんだよ」
鴨志田は集計表を閉じた。
「みんな迷惑しているんだから謝って」
「ですが」
「店長命令。これ以上、話を長引かせないで」
奈津子が満足そうに顎を上げる。
事務所の外には、朝礼を待つ従業員が集まっていた。扉が開いたままなので、会話はすべて聞こえている。
紬は廊下へ出た。
視線が一斉に集まり、すぐに逸らされる。誰かが小さく息を吐き、別の誰かが靴のつま先で床を擦った。
紬は身体の前で両手を重ね、頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
火傷した腕が引きつれ、絆創膏の下で傷が開いた。
誰も返事をしなかった。
「じゃあ、今日の休憩は後回しね」
奈津子が言った。
「不足分の確認で時間を取られたんだから、そのくらい働いてもらわないと」
紬は顔を上げた。
「分かりました」
朝から客足は多かった。
籠を受け取り、商品を通し、金額を告げ、釣り銭を渡す。同じ動作を何百回も繰り返す。立ち続けた足の裏は昼前から痺れ、午後には腰の痛みが背中まで上がった。
休憩交代の名簿から、紬の名前だけが消されていた。
正午を過ぎても、午後三時を過ぎても、奈津子から声はかからない。水を飲みに行こうとすると、客が並んでいるのに持ち場を離れるのかと止められた。
腹の中には、朝、味見をした卵焼きの端しか入っていない。
空腹はやがて痛みへ変わり、それを過ぎると、胃の内側が冷たく痺れた。指先から力が抜け、硬貨を一枚落とす。床へ転がる音に、身体が凍った。
「大丈夫?」
客に尋ねられ、紬はすぐに拾い上げた。
「申し訳ございません」
謝る声だけは、考えなくても口から出た。
閉店まで、あと二時間。
店内の照明は昼と変わらず明るいが、ガラス扉の外はもう暗かった。客足が少し途切れ、紬は乾いた唇を舐める。
自動扉が開く音がした。
冷たい風と一緒に、背の高い男が店内へ入ってくる。
短く整えた黒髪。濃紺のスーツ。片手には黒い革の鞄を持ち、仕事帰りらしい疲れを静かな表情の奥へ隠していた。
男は売場を回り、ミネラルウォーターと缶コーヒー、サンドイッチを籠へ入れた。
いくつか空いているレジがある中で、紬の列へ並ぶ。
紬は俯いたまま、前の客の商品を袋へ移した。
「ありがとうございました」
次の籠を引き寄せる。
「いらっしゃいませ」
ミネラルウォーター。缶コーヒー。サンドイッチ。
一つずつバーコードへ通すたび、電子音が鳴った。男は何も言わず、紬の手元を見ている。
絆創膏だらけの指。制服の袖から覗く濡れたハンカチ。力の抜けかけた手首。
最後の商品を通し、紬は表示された数字を確かめた。
「合計、七百四十八円でございます」
男が財布を開く。
けれど紙幣を取り出す手が、途中で止まった。
視線が紬の胸元にある名札へ落ちる。
《御厨 紬》
その文字を見つめたまま、男の呼吸が変わった。
紬は顔を上げた。
目が合う。
男の瞳が大きく揺れ、開きかけた財布がゆっくり下がる。
十五年以上、家の中では一度も呼ばれなかった二音を、男の唇が確かめるように形づくった。
「……紬?」
その日、紬がレンタルルームへ持ってきた鞄は、いつもより少しだけ重かった。中に入っているのは着替えでも食事でもなく、薄い大学ノートが三冊と、透明なファイルへ挟んだ銀行明細やレシートの写しだった。長年使い続けてきた家計簿の一部で、表紙の角は擦れ、何度も開閉したページの端には油や水の薄い染みが残っている。子どもが幼かった頃に書いた鉛筆の数字と、最近の細いボールペンの文字が同じ一冊の中に並び、紬が何年も同じ台所で金額を削り続けてきた時間そのもののように見えた。 律は机の向こうへ座り、紬が一冊目を開くまで何も尋ねなかった。今日はスープも菓子もなく、二人分のペットボトルの茶だけが机の端に置かれている。紬は最初のページをめくり、五万円と大きく書かれた月で指を止めた。「これ、まだ生活費が五万円だった時」「十人で?」「うん」「食費だけ?」「食費と日用品と、学校で急に必要になったもの。病院代は卓臣が出すって言ってたけど、細かい診療代は結局ここから払うことも多かった」 律は眉を寄せたが、何も言わずページへ目を落とした。米、肉、魚、牛乳、洗剤、トイレットペーパー、学校用品。数字は一円単位で細かく並んでいる。月末へ近づくにつれて、肉の回数が減り、豆腐ともやしが増え、紬自身の昼食欄だけが空白になる日が多くなっていた。「この頃から、自分の分減らしてた?」「減らすっていうより、残ったものを食べてた」「残らなかったら?」「食べない」 答えてから、紬は自分でも平然と言いすぎたと思った。律の表情が少し曇る。それでも彼は「何でそんなことを」と責めるようには言わず、次のページへ目を移した。「これが三万円になった月」 紬は別のノートを開く。赤いペンで〈三〇、〇〇〇円〉と書かれ、その下へ日付ごとの支出が並んでいる。月の半ばを過ぎたところから、買い物の内容が明らかに変わっていた。豚肉の代わりに鶏むね肉、刺身の代わりに豆腐、果物は安いバナナだけ。八重が要求する八品を維持するため、同じ材料を切り方と味付けで別料理に見せている日もある。「ここ、何で一日食費四百円台なんだ」「前の日の残りと、冷凍してあったもの使ったから」「十人分?」「うん」「無理だろ」「だから、私の分を数えなかった」 律は何か言いかけてやめた。紬はその沈黙の意味が分かった。以前なら、自分でも「でも仕方なかった
卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目